あれからの深夜出版――ローラン・モーヴィニエ『私が忘却と呼ぶもの』

 青色の細い線で縁取られた真っ白な表紙には、作者の名前とタイトルと出版社のロゴである星印だけ。そんな随分と簡素な装丁の書籍を刊行しつづけている、エディション・ド・ミニュイ(深夜出版)という出版社がフランスにはある。この出版社は、どうやら日本でもファンが多いみたいだ。かつて日本の翻訳文学市場を大いに(?!)賑わせたヌーヴォーロマンの作家たちの牙城だったからだ。ロブ=グリエ、ビュトール、シモン、パンジェ、デュラス、サロート…… 数多くの前衛作家たちがこの出版社から自作を出版した。

 だが、深夜出版にヌーヴォーロマンというレッテルを貼りつづけるのも、流行から半世紀近くが経った今となっては少し時代遅れな気がする。今だって優れた小説をたくさん出版しているのだから、それらを無視してしまうのは少しさびしい。ここではせっかくだから、深夜出版の現代作家の一冊を紹介してみたい。かれの名前はローラン・モーヴィニエだ。

 ローラン・モーヴィニエを読むときは、心地よい(矛盾を抱えた)不安感に襲われる。この不安の原因は、「いったい誰が話しているのか分からない」という読書中の感覚に由来する。かれの多くの小説は、文中の代名詞がだれを指しているのがしばしば不明瞭だから、なんだか誰かによって無理やり記憶を再構築させられていくような読書感覚を抱かされる。

 モーヴィニエの文体の特徴がもっとも明白にあらわれているのは、『Seuls』という2004年の小説かもしれない。この小説における語り手と代名詞の扱いは、非常に興味深いものだ。けれども、いつの日か翻訳されたときに、その技巧に多くの人が驚いてほしいので、ここではネタバレを避けるためにも触れずにおこう。だから、『私が忘却と呼ぶもの Ce que j'appelle l'oubli』(2011)を紹介しようと思う。

 かれの小説は一貫して登場人物の孤独や喪失、忘却を扱ってきたが、2006年の『人混みのなかで Dans la foule』から、実在の事件・歴史的な出来事を物語化するようになったという点でも興味深い。『人混みのなかで』はヘイゼルの悲劇。『ひとびと Des hommes』(2009)ではアルジェリア戦争。そして、『私が忘却と呼ぶもの』では、2009年にリヨンで起きたホームレスの男の死を扱っている。

 『私が忘却と呼ぶもの』の本文は単行本でたったの55ページ。ただし、この55ページ中、一度も文章は途切れない。つまり、55ページで一文なのだ。うねるように長い文体というと、フィリップ・ソレルス『天国 Paradis』やクロード・シモンの作品を思い出すが、あれらのテクストが抱えるような難解さは感じない。あくまで息がとても長いだけで、むしろ読みやすいテクストだと思う。

 物語中で起こるのは、一人の貧しいホームレスの男が大型スーパーマーケットで缶ビールを1本盗もうとして、4人の警備員に取り押さえられ、必要以上に暴行を加えられたのちに死ぬという事件だけだ。語り手と思しき人物は、冒頭の《そして検事が言ったのは》と始まることから分かるように、おそらく《検事》であることが分かる。かれは、この万引き「事件」のすべてを知っていて、犯人の男についてもすべてを知っているようだ。しかし、この人物のパーソナルな部分はまったく触れられておらず、かれがいったいどんな人物なのか、どこでどうしてこの事件について語っているのかは分からない。他方でこのテクストは、誰かに語りかけるような形式が取られていて、本文中に《分かるだろ?(tu entends ?)》《きみだってそれが分かるだろ?(tu comprends ça, toi ?)》と 呼びかけがしばしば挿入されている。

 この呼びかけの相手は、おそらく被害者の兄か弟であることが比較的冒頭で分かるようになっている。かれの文体は謎を抱えるばかりで謎解きをしないテクストとは異なり、いたずらに読みづらく構成されているわけではない。

[…]きみにこう言うのは、きみがかれと兄弟だから、かれが時々はきみを慰めたかったように、きみをぼくが慰めたいから、人生はかれにとってクソではなかったと、そう伝えたいんだ、ぼくを信じてくれ、それだけは安心していい、[…]

 そして、本文中では条件法過去が多用され、「……すればよかったのに」という悔恨の感情と、ありえたかもしれない別の未来がもう起こり得ないことの悲しみが表現されているのが特徴的だ。テクストを読んでいくと分かるように、作家はこの窃盗をしたホームレスを、《心臓が止まり、肝臓が破裂し、肺は潰れ、鼻は折れ、手のひらサイズのあざがいくつもある》状態にまでする必要がなかったと考えていることが、この時制の使用からひしひしと伝わってくる。

 もちろん文体に人一倍こだわりのあったジェローム・ランドンが社主をしていた深夜出版から出てきた作家だから、こうした特異な文体で書くことにも自覚的だ。モーヴィニエが自らの文体について端的に語っているインタビューから、一節を引用しよう。

文学とコミュニケーション、ジャーナリズムを隔てるものは、この問いにある。私たちに情報をもたらすものは、必ずしも私たちに見ること、感じること、理解すること――最も語源的な意味での「把握すること」――をもたらすものではない。[……]情報の現実を伝達することはできても、言葉だけでは、分かりやすく、繊細に、文学的に表現する手段は決して得られない世界が、あなたの出会う世界、こうした場所の感覚的で感情的な真実だ。可能な限り正確な感覚を再発見するためには、言葉の不在、間隙、貧しさに頼らざるを得ないのだ。

 分かり易さ・読み易さから離陸しつつも、語り得ぬかもしれない他者の痛みに満ちた体験を語る方法を見つけること。それこそが、モーヴィニエが試みることだ。もしも今なお文学に価値を見出せるのだとしたら、SNSや報道の言葉とは異なる方法で、単なる情報伝達を超えた効果をもたらす言葉の使用法を見出すことができるときではないか。カポーティ『冷血』に大いなる影響を受けたことを公言しているモーヴィニエは、忘れ去られてしまう小さな出来事を、なんとか人々の記憶に残すために、言語の実験を繰り返しているように思えるのだ。

 だからモーヴィニエは被害者の声を、そして事件をめぐる様々な声を、テクストに残そうとしているように思える。それは被害者の最後まで発せられなかった声も含んでいる。盗みが発覚したあと、死ぬまでにほとんど言葉を発さなかった被害者の声を残そうと、それが無理であれば、かれを取り巻く声を残そうとしているように思えるのだ。

[…]でも、かれは何も言わなかった、騒ぎを起こさなかった、そうさ、騒ぎを起こさなかったんだよ、警備員たちにも、誰に対しても、言葉がなかったから、そう、一言もさ、喉の渇きを癒やせたことの満足さを伝える言葉さえ、ましてやじぶんを弁護する言葉なんてないのさ、ほんの少し年上のあいつらにこう言うことだってできたのに、おまえらは俺と同い年だろ、お前、おまえは俺より若いじゃないか、なあ、おまえはどうなんだ?

[…]恥と茫然だけが残るだろう、かれらのうちでそれらが膨れあがり広がってゆく、ぼくはそう信じたい、それを、あのあと、死がやつらとかれのあいだに割り込んだとき、あの身体のありさまを目にしたときは、つまりかれらにとってもあれは動揺することだったのだと、

 かつて、フランス文学とは、いかにして語り手=声の起源の姿を消すかに邁進してきた。自由間接話法を自在に用いたフロベール、「白いエクリチュール」と称されたカミュ、「語りの声」という概念を創出したブランショ、『ロル・V・シュタインの歓喜』を書いたデュラス、そしてサミュエル・ベケットとクロード・シモン。こうしたフランス文学の系譜を継承しながら、もはや誰にも属さないように思える、しかしどこからか聞こえてくるささやき声のような文体で小説を書くことを選んだ作家、それがローラン・モーヴィニエだ。

 かれの語り手は被害者の代弁をしながらも、誰にも属さない声であるかのように見せかけることで、他者の声と証言を専有しないように試みている。これこそがモーヴィニエの倫理なのかもしれない。読むというよりもどこからかそっと聞こえてくる、そんなかれの文章は、時空を大きく隔てた穴からわたしたちに届く鎮魂歌のようだ。

Laurent Mauvignier, Ce que j'appelle oubli, Édition de Minuit, 2011.