スタア誕生の表と裏――メディ・イデル/グラン・コール・マラード『ムッシュー・アズナヴール』
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シャルル・アズナヴール「希望に満ちて」
現代の伝記映画は大きく分けて二つの系譜をもっているように思える。まず第一に、女性アーティストの生涯――特に知られざる一面――を描くというもの。近作ならば、ニキ・ド・サン・ファルを扱ったセリット・サリーヌ監督『Niki』がこの系譜に当てはまるだろう。他方で、天才は自らの実力だけではなく、周りがあってこその天才であったという《神話》の破壊を試みるものがある。もちろん、神話の破壊を大々的に行うことはできないので、そうした行為は内密に行われるのだが、『ムッシュー・アズナヴール』はまさにこの後者の系譜に属すと言えるだろう。
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世界中で知られるシャンソン歌手の隆盛を描くこの映画は、一見すると単純な伝記映画に見える。映画冒頭で赤いノートにアズナヴールが向かうと子供時代の回想がスタートし、あとは時系列通りに「いかにして偉大なシャンソン歌手が生まれたか」が紹介されていく。アルメニア難民で、生活も苦しい家族での生活から、いかにして輝かしいキャリアをもった歌手が生まれたかを、いやというほどに見せてくる。エディット・ピアフ、フランク・シナトラ、シャルル・トレネ、そしてフランソワ・トリュフォーまで、有名人たちとのエピソードを出してくれるサービス精神は旺盛だ。さらに豪華な歌唱シーンの数々は長回しを多用して、芸術性を狙ったのかもしれないが、残念ながら、ちょうどLe Champoでリマスター版が上映中の『ローラ・モンテス』(マックス・オフュルス監督)の冒頭には回想への移行もぐるりと360度回転するカメラワークもまったく敵わない。
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だが、おそらく本作品の本質は天才アズナヴールの名誉を見せるだけというよりも、天才とはいかに自分勝手な存在であるかを見せるという点だろう。アズナヴールが苦労をして、自らの歌唱力を武器にスター街道を歩んだことは事実なのだが、歌が上手くてしっかり者の姉アイーダという存在がいたからこそ彼は9歳から舞台を経験することができたのだろうし、ピエール・ロッシという作曲家とキャリアをともにしたことで歌手になることができたのだ。もちろんよく知られているように、エディット・ピアフのお眼鏡にかなったことが大成功の鍵だろう。そしてもちろんパートナーの献身。いずれにせよ、アズナヴールは極貧の幼少期を過ごしたし、戦中にはユダヤ人でないかを確認するために人前で下半身を裸にされて割礼をチェックされるなど屈辱的な体験もたくさんしているが、他人の協力あってこその成功なのだ。
売れれば世界を飛び回り、子育ては妻に任せっきり。あっけなくピエール・ロッシを見捨ててソロ活動。息子が自死しても葬儀の夜にはオランピアにコンサートをしに行ってしまうのだし、三番目の妻ユラ・トルセルに「あなたはトップになった」と言われても、「まだまだだ」と言って、決して家庭を顧みない。シャルル・アズナヴールとはシャンソン中毒のクズであることが(大々的にではないが)劇中で示される。
もちろん、クズなのは彼だけではない。エディット・ピアフも、ほとんど思いつきでアズナブールをアメリカやカナダに行かせるクズっぷり。酔いつぶれたら靴を脱がせてベッドに寝かせることまで彼にさせて、まるでお手伝いさん扱いもさせていたことが示される。
こうした天才《神話》の破壊は、#Metoo以後のフランスではよくあるもので、もはや現代のフランスではあの作家主義すらも疑問視されている。ジュヌヴィエーヴ・セリエによる論争的な批評『作家崇拝 La Culte de l'auteur』では、いかにして作家主義が欺瞞であるかが厳しい筆致で暴かれていく。いずれにせよ、天才などというものはひとりで存在することなどできず、周りのサポートあってこそ天才なのだが、私生活ではクズであることを再確認することが、現代の流行りなのかもしれない。
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同性愛を歌った「言われるように Comme ils disent」がいかにして生まれ、どのように受容されたのかを説明するシーンはなかなかに興味深かったのだが、「愛のために死す Mourir d'aimer」が扱われなかったのは少し残念だ。日本ではあまり知られていないようだが、このシャンソンは教え子と恋に落ち、ペドフィリア扱いをされた高校教師ガブリエル・リュシエの自殺という1969年の三面記事事件を扱ったものなのだ。アズナブールが同時代の社会に敏感に反応し、体制や世論にのまれぬ存在であることを示すためにも、この曲とエピソードは、個人的にはぜひ入れてほしかった。
しかし、様々な点で物足りなさを感じてしまうこの作品は、改めてソフィア・コッポラ『プリシラ』の複雑さを確認させてくれた。冒頭で言及した二つの系譜のどちらにも属しながら、「ひどいこともたくさんされたけれど、プリシラはエヴィルスをいつまでも愛している」というテイストを残して物語を締めたソフィア・コッポラの作品は、単なる時代の反動に見えながら、容易に分類されることを拒む強度も備えているようにも思えてくるのだ。