作家主義は時代遅れなのか――ジュヌヴィエーヴ・セリエ『作家崇拝』
現在、フランス映画批評で最も戦闘的な論者の一人であるジュヌヴィエーヴ・セリエの新刊は、ついに「作家主義」に切り込んだ。ヌーヴェルヴァーグとポスト=ヌーヴェルヴァーグの作家たちの作品へ向けられる批判のあまりの厳しさに、シネフィルたちも思わず苦い顔せざるを得ない。シネマテークのアンリ・ラングロワ上映室では、多くの(とりわけ男性の)シネフィルたちが、顔をしかめながら本書を読んでいる姿によく出くわす。
フランスという国家は、未だにヌーヴェルヴァーグとその後継者たちを神格化することを辞めず、最近もアルテ Arteでフランソワ・トリュフォーの人生を扱うドキュメンタリーが放送されたばかりだ。だが、ジュヌヴィエーヴ・セリエは、そうした神格化を木端微塵に破壊しようと試みている。
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本書では、フランス映画界に性暴力を黙認させてきた原因の1つこそが、トリュフォーが1955年に唱えた「作家主義」とされている。作家主義が、共同作業によって生まれるはずの映画を一人の天才に還元し、芸術的才能を備えた作家であれば全てが許されるという状況をつくってきたという。それゆえ、彼女は厳しい論調で、作家主義およびヌーヴェルヴァーグを批判する。
フランソワ・トリュフォーと『カイエ・デュ・シネマ』のメンバーたちが、良作であることの唯一の基準として押し付けたあの有名な「作家主義」は、間違いなく映画史における最大の欺瞞である!
ヌーヴェルヴァーグの特徴とは、男性の登場人物と女性の登場人物の非対称性が、年齢によってという以上に、劇的で物語的な状況によって示されることだ。物語は男性の視点によって構築され、女性の登場人物は主人公の欲望の対象としてしか存在しない。我々は彼女たちの主観には触れることができないのに対し、映画はしばしば心情のモノローグによって補強される男性主人公の視点と合致するのだ。
さらには、ヌーヴェルヴァーグとは、若い女優の使い捨てシステムであり、自らの自伝的な要素を盛り込んで物語る監督のナルシズムに満ちたものでしかないという。
こうした中で唯一肯定的に言及されているのが妊娠中絶についての台詞を盛り込んだ『ママと娼婦』(ジャン・ユスターシュ監督)だが、批判の対象になっているロメールやリヴェットの作品は、本当に断罪されるべき作品だろうか。たしかに、二人の作品は若い女優たちを常に採用してきたが、しかし男性の生と同様に、時にはそれ以上に、女性の生きざまについて語っていないだろうか。
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無論、マリア・シュナイダーからアデル・エネルまで、映画産業の被害に遭い黙殺された女性たちのありさまを列挙した4章はかなりショッキングだ。くわえて、ドワイヨンの『泣きしずむ女』『15才の少女』の公開時に映画館で鑑賞し、ショックを受けた自らの少女時代を語る部分にも、読者は大変なショックを共有することになるだろう。
また、ヌーヴェルヴァーグ以後についても、監督が自らを悩める男性キャラクターに自己同一化し、他方で女性は欲望の対象としかならない物語をつくりあげてきた監督たち――もちろん「作家」とみなされている者たちだ――も、本書では痛烈な批判に遭っている。具体的には、ジャック・ドワイヨン、ブノワ・ジャコ、フィリップ・ガレル、オリヴィエ・アサイヤス、ブリュノ・デュモン、アルノー・デプレシャン、レオス・カラックス、マチュー・アマルリック、フランソワ・オゾン、クリストフ・オノレ、エマニュエル・ムレらだ。
おそらく多くのシネフィルが才能を認めてきた監督たちが、これほどまでに一堂に会して批判の俎上にあげられたことは、これまでにはほとんどなかっただろう。
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こうした批判の論調は、美学的なショットの分析に傾倒し、ストーリーや登場人物の設定を軽視してきた『カイエ』誌や『テレラマ』誌の伝統的な批評も酷評することになる(なお、『ポジティヴ』誌は唯一言及されていない)。フランスの伝統的な映画批評には、ジェンダー意識も欠如しているし、ジェンダー表象に着目した視点から見た映画史の知識も乏しいことを著者は批判する。例えば、『水のなかのつぼみ』(セリーヌ・シアマ監督)を褒めようとする『テレラマ』誌の「水中ショットの使用という独創的な方法」という一節を引き合いに出し、同じくシンクロナイズドスイミングを扱った『世紀の女王』(ジョージ・シドニー監督、1944年)の知識の欠如を著者は批判する。
もちろん、本書の批判の対象は男性監督と伝統的な批評雑誌だけにかぎられず、女性の監督たちの作品も〔部分的にではあるが〕批判されていく。クレール・ドゥニ、カトリーヌ・ブレイヤ、ヴァレリア・ブルーニ、ノアミ・ルヴォウスキー、ミア・ハンセン=ラヴ、ジョリー・デルピーらの紡ぐ〔一部の〕物語も、男性との関係を通じた女性の姿しか描けず、女性という存在そのものを描くことが出来ていないことが痛烈に批判されるのだ。さらに著者は、列挙した監督たちの大半の作品では、女性は特別な仕事に就いていることによって特殊性を獲得した存在であるか、家庭に従属した主婦として描かれているかの2パターンしか存在しないことを指摘する。こうした設定により、現代世界の人口の大半の姿であるはずの、何も特別ではないが社会にとっては必要な仕事に就く女性を、映画が描けていないことを批判するのだ。
さらに、本書では、フランス映画を守るという名目のもとで、作家たちに特権を与えてきたCNCという存在も疑問に呈されることになる。日本では何かと理想のシステムのように語られるCNCが批判されている様子には、なかなか驚かされるものだ。以上のようにして、厳しい筆致で描かれるフランス映画史の中で、例外的に評価されている監督はヴァレリー・ドンゼッリ、セリーヌ・シアマ、ジュスティーヌ・トリエである。彼女らの作品が#Metoo以後の現代の価値観で、評価に値することを否定する者はたしかにいないだろう。
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我々がカノンと信じてやまぬフランス〔とフランスの批評界が絶賛する他国の〕作家映画が厳しく批判されることで、読者は「ブレイン・ウォッシュ」(ニナ・メンケス)されるのだ。本書はいくらか攻撃的かつ戦闘的な文章によって、フランス映画と批評の大文字の歴史が批判されてゆくのだが、価値観を硬直させたシネフィルたちにとって、これほどショッキングなことはないだろう(ただし、「華のフランス」のイメージを未だ捨てきれぬ日本のフランス映画愛好家たちが、本書の議論に適応できる柔軟さを持ちえているのかは不明である)。
一点注記しておきたいのは、著者は作家映画の欺瞞を暴く際に、批評界の絶賛に反する劇場公開時の来場者数の少なさをあげるのだが、来場者の数が芸術の価値を決めることは決してないはずだ。多くの映画監督・俳優たちの行いは制裁を受けるべきではあるのだが、芸術作品としての価値すらも数値化できるという勢いの論調には首を傾げざるをえない。ストーリーの分析も行いつつ、撮り方/見せ方の批判にも力点を置くべきだったのではないか、と読み終えた今は思う。
本書は、「映画を見に行く普通のひとの経験により近い批評基準」を探求していると謳い、表現の自由を盾に取ったバックラッシュを批判しているのだが、一読者としては本書こそがバックラッシュにならないことを願っている。ストーリーがいかであれ、描き方によっては体制への批判的思考を引き起こすことは可能なはずだ。だからこそ、表面的なストーリーをなぞるだけで満足せず、読者・鑑賞者に表象についての思考をより促すような書物であってほしかった。そうした意味でも、ストーリーと表象の両方からのアプローチがなされたイリス・ブレイの近著(『女性の眼差し スクリーンにおける革命 Le regard féminin une révolution à l'écran』)こそ、読まれるべき一冊な気がしてならない。
Geneviève Sellier, Le Culte de l'auteur, La Fablique, 2024.