気のいい女たち――ノエミ・メルラン『バルコニーの女たち』

 まったく最近のフランス映画は伝記映画(biopic)ばかりで、たまには純粋なフィクションにどっぷりと浸りたくなってしまう。たしかにニキ・ド・サンファルもサラ・ベルナールもシャルル・アズナブールもミシェル・ルグランも重要な人物だし、実際に見れば面白いのだが――。

 そんな思いを抱いている時に、映画館で幾度も目にしたやけにキッチュな予告編の『バルコニーの女たち』は、アルモドバル風の色彩も、オゾン風の軽快さも、そしてジュネを思わせるタイトルも、なんだかやけに心を惹きつける。そんな直感に従って見に行けば、やっぱりとても面白いのだし、なんと監督が今話題の女優ノエミ・メルランなのだ!

 パリよりもずっと薄着で人びとが暮らすマルセイユの路地にたたずむアパルトマンのベランダでは、3人の若い女性が動き回っている。駆け出しのドラマ女優のエリーズ、チャットレディのルビー、作家志望のニコル。『裏窓』のように(?)、下着が干されたベランダをほぼ裸で動き回る彼女たちが誰かの視点でまなざされ、さらには画面には横暴な旦那についに手をかけてしまう――手というよりも尻なのだが――中年女性の姿も映っている。扇情的な女性身体のイメージ、センセーショナルな家庭内殺人の様子、いかにもヒッチコックにありそうな題材だが、本作が『裏窓』とまったく異なっているのは、ベランダをまなざす者が女たちであるということだろう。だから、画面はつねにエロティックというよりもキッチュでポップだし、家庭内における男女の地位の不均衡には真剣で共感的なまなざしがもたらされている。

 とはいえ、性的な要素がまったく排除されているわけでもなく、3人の女たちは向かいのアパルトマンに住むカメラマンの若い男性をジロジロとベランダから見つめているのであり、どうにか一緒になる機会をうかがっている。最近、映画批評家のアクセル・ロペールが言ったように、「問題なのは窃視ではなく映画そのものであり、ブラッド・ピットやティモシー・シャラメに夢中になる覗き魔の女性をもっと見たい」というわれわれの欲望に本作品は応えてくれる。

 見る/見られるというきわめて古典的な主題をもった『燃ゆる女の肖像』で主人公を演じたノエミ・メルランは、性的な欲望を見て見ぬふりをするという生半可なやさしさではなくて、むしろ欲望する女性主体を描くというラディカルさを選択した。

 カメラマンの若い男性は、『テルマ&ルイーズ』のブラピのような明らかな俗物感を漂わせていて、そうした予想を裏切らず、ルビーに「君を被写体モデルにしたい」と持ちかける。もちろんそれは口実で、彼女を強姦しようとしたことがのちにルビーの証言によって明らかになるのだが、物語はここから急加速し、伝統的なレイプ・リベンジ・ムービーの様相を抱きはじめるのだ。

 死体を隠し、解体し、男の陰部を復讐のごとく切り取るさまはグロテスクだが、故意にコメディ調かつキッチュに演出された映像のおかげで嫌悪感は感じられない。監督本人の発言によれば、本作の演出は韓国映画の影響を受けたそうで、たしかに言われてみればそんな気もするだろう。むしろグロテスクなのは女たちを取り巻く状況であり、たとえ女たちが欲望したとはいえ、同意なき状況では性行為は許されていないという事実がじゅうぶんに理解されていないことに落ち込まざるをえない。

 死体をめぐる逃避行のゆくえを詳述すると、せっかくの本作のサスペンスをダメにしてしまうから、ここでは来たるべき日本公開に向けてネタバレは回避しておくしかない。それでも「女の秘密は選ぶことができず罰なのだ」といった意味の台詞をはじめ、エリーズが撮影中のドラマはマリリン・モンローの伝記であるなど、本作は現代社会と映画史へのじゅうぶんな批評性をもっている。

 それゆえ、仏批評誌(☆3.1)と仏映画感想サイトAllociné(☆2.6)の評価には個人的に無念さを隠せない。周りのフランス人のシネフィルたちに言わせてみれば、安っぽくて分かりやすすぎるということなのだし、たしかに円熟さは欠けているが、それでも本作は見るべき一作であることは間違いない。こうした本国ではイマイチな作品を評価するのは、われわれ異邦のシネフィルの仕事のひとつであるように思えたのだった。

作品詳細:Les femmes au balcon (2024) - IMDb