花ある記憶――ピエール・ミション『西の皇帝』

 背筋を伸ばして読む作家というのが存在する。たとえば、マルグリット・ユルスナール。彼女の小説は、読み飛ばす、流し読みをするということに向いていない。それは、たとえ比較的やさしい語彙で書かれた自伝三部作すらあてはまる。あるいは、パスカル・キニャール。彼の小説は、短いものが多いのだし、構文がすごく複雑なわけでもないのだけれども、やっぱり適当に読むことができない。

 そして、フランス文学の奥座敷でわたしたちを待っているピエール・ミション。彼の小説ほど、流し読みをするのには向かないものはない。メトロで流し読みなんてできない。おしゃれなカフェのテラスで読むなんてもってのほか。寝る前にひとり、サイドテーブルの上の仄かな明かりを頼りに、一語ずつ見逃さないように文字を追いながら、ゆっくりと時間をかけて読むべき作家なのだ。

 だから、『西の皇帝』という文庫で80頁未満の短い小説を読むのに二か月以上も費やしてしまった。この短い物語が語るのは、西暦400年ごろの西ローマ帝国でのいくつかの出来事だ。西ローマ帝国の皇帝フラウィウス・アエティウスという語り手を中心に物語は進んでいく。

 指を失った老音楽家プリスクス・アッタルスとの海辺の街での出会い、対話を通じ、彼らのある意味不遇ともいえる人生や、これまで耳にした音楽についての哲学的な議論、西ローマ帝国を略奪したアラリック1世についてなど、様々な過去が登場人物たちによって語られ、想起される小説だ。

 塩野七生の著作すら満足に読み通すことのできない怠惰な自分には、あまりに重厚すぎる主題をもつ小説で、骨の折れる読書としか言いようのない体験だった。思わず、ギボン『ローマ帝国衰亡史』のページを繰ってみたりもするのだが、幼少期に親から人質に出されたアエティウスについての記述はほんの少ししか見つからない。他にもいくつかの歴史書にもあたってみたのだが、詳細な記述はそれほど見つけることができず、「予習」ができないことにモヤモヤさせられる。

 結局、この歴史的事実をもとに書かれた短いテクストが伝記なのか、エッセイなのか、それとも純粋なフィクションなのか分からない。そうして、事実と作家の創作の境界に戸惑いながら、既存のジャンルに分類することもできない謎の書物を、わからないわからないと毎夜唸りながら読む二ヶ月を過ごしてしまったのだ。

 そして、この長い長い二ヶ月から学んだのは、ピエール・ミションを読むことは、物語――そして言葉の流れ――に身を任せることであるという事実だ。史実との差異を確認することは、フィクションに没入することではない。姑息な知識の密輸入などけっして許されない作家なのだ。

 ストロンボリ島を見渡せる島で三本指の老人と出会った主人公は、カモメが宙を舞い、帆船が行き来する水平線の見える海辺で、老人から人生を聞くことになる。主人公アエティウスもまた、自らの人生の話をしたいという控えめながら強い欲望を持っており、人質として他国へ出されていた少年時代の話が物語の中に組み込まれていたりもする。

 アッタルスが語る半生は、真実と虚構の境界があまりに曖昧だ。例えば、彼が出生地のシリアについて語る時、アンティオキアの森は自然にダプネーとアポロンの話へと結びつけられている。ダプネーが月桂樹に変えられた森として語られることで、歴史的事実は神話と同次元で混ざりあう。作家はこの曖昧さに非常に自覚的で、だから、次のような(あざといほどの)一文が物語の中に存在する。

彼がそれについて語ったのは、ずいぶん昔のことだった、過去のことあるいは純粋な虚構、過去であるがゆえに純粋な虚構──いや、おそらく一度も語ったことがなかったのかもしれない。

 過去とはもはや純粋な虚構なのだろうか? わたしたちの誰もがアッタルスの演奏する竪琴の音色を知らないように。西暦400年頃の宮廷で日々演奏されていた音楽を誰も知らないように。楽譜も楽器も現存しない曲と同じく、あまりに資料の少ない歴史が語られる時、いかにしてそれを再現することが、想像することができるのだろうか。

 『小さき人びと』〔千葉文夫訳〕に顕著なように、名もなき人たちの生に魅せられてきた作家が、歴史書にもほとんど出現しない皇帝を主人公に選ぶのは、いわば必然なのだろう。そして、〈歴史〉から忘れ去られた人々の生は、過去=事実と虚構のあいだに留まりつづけている。

 語り手の「私は彼を傷つけたかった、彼に達したかった、彼に自らを近づけたかった」という欲望は生々しい。この暴力的な意志によって、読者にはかなり詳細にアッタルスの半生を知ることができる。「彼は私に言ったのだ」という表現の多用から、アッタルスからの伝聞であることが物語の中では強調され、私たちは、アッタルスの話を聞いたアエティウスを経由してしか出来事を知ることができないことを痛感させられる。いわば、間接的な情報伝達である。それにもかかわらず、物語はあまりに活き活きとしている。

 アッタルスが初めて音楽に魅せられた日のこと。竪琴を自らの楽器に選んだ瞬間。アラリック一世のもとで演奏をした日。彼の身にまとうサフラン色のローブとターコイズ色のマント。どのエピソードも事物も、細かな描写がされているわけではないのだけれど、目の前にイメージが立ちあがる力強さを持っている。物語を彩っている花々――クレマチスやアルム、《volubilis》、《seringa》(あえて原語のまま記したい)――の香りがむせかえるように紙面から漂ってくる。そして、(あえてこう訳すが)みつくちの奴隷の存在など、あまりにショッキングで艶めかしいイメージに満ちた小説だ。

 ピエール・ミションを読んでいると、自分はまだ幼すぎると思わされる。晦渋な文体をもつこの作家を嗜むには、まだあまりに若すぎる。文法力が足りないのか? たしかに、ポワン・ヴィルギュール〔セミコロン〕を多用して、うねるように繋がれた文章を読むのは骨が折れる。だが、それは語学力だけの問題ではない。まだまだ現実の人生で向き合うべきことがあるのだろうか。もっと、真の意味での離別や悲しみを知る必要があるのだろうか。

 母のもとを去り、音楽の修行に旅に出たアッタルスについて語られるシーンに書き込まれた一文のように、想起することを恐れるほど老成しなくてはならないのか。

船路は長く、海は恐ろしい、人々は難破を恐れている、過去を思い出すことを恐れている。

なんとか最後の一文字までを追ったあと、いつかこの小さな本を楽しめる時に期待して、そっと本棚に差し込んだ。きっとこの本は忘れた頃に、また戻ってくる。

Pierre Michon, L'Empereur d'Occident [1989], Verdier, 2007.