【2023年パンフ】なぜ、「フランス映画と女たち」なのか
2023年12月に映画館Strangerにて開催された「フランス映画と女たち」の際に、来場者に配布されたリーフレットの文章から「イントロダクション」を以下に再掲します。
「フランス映画と女たち」と題して今回上映する三本は、いずれもこれまで十分な上映機会にめぐまれなかった作品たちである。では、なぜ今になってこの三本なのか。いずれもが旧作のために、「今更」という感情を抱く映画ファンたちも存在するかもしれない。もちろん、そこには主催者の私的な趣味・嗜好も介入しているのだが、それだけではないつもりである。以下に本企画の意図を記しておきたいと思う。
ここ数年、女性映画監督の特集上映が増していることは誰もが否定できない事実である。シャンタル・アケルマン、アニエス・ヴァルダ、メーサーロシュ・マールタをはじめとして、多くの女性監督の特集上映が近年組まれている。シネフィルたちがこれまで女性監督たちを無視してきたことを清算するかのようなこうした特集には、もちろん多くの意義がある。
しかし、映画にはなによりもまず女優が存在する。映画を見ることが女優を――そして女優の身体を――見ることと深い関係をもってきたことは紛れもない事実である。女性の身体に魅了され、スクリーン上の女性の身体に欲望することが、長らく映画ファンたちのなかでの秘められた常識だったとも言えるかもしれない。
従順で聞き分けが良く、欲望可能なエロティックな身体をスクリーン上で晒してくれる女性がいれば十分だと考えている鑑賞者も未だにいるかもしれない。そんな思いを抱くのは、2022年に東京の名画座で『恋に踊る』(ドロシー・アーズナー監督、1940年)を見た時に遭遇した出来事ゆえである。この映画では、舞踏団の女性が壇上で自らが男性客にまなざされることで性的に搾取されていることを感情的に訴えるシーンが存在する。私が鑑賞した回では、多くの客がこの場面で声をあげて笑っていたからだ。
そうして、女優(の身体)へのまなざしを変えてみたいという観点から出発したのが本企画である。この特集上映で選定した3本は、いずれもエロティックな欲望の対象としてまなざすことを容易に許さない女性たちの姿を映している。鑑賞者の中に、『レースを編む女』のラストショットに戸惑いを示す者がいるであろうことも、ヴィオレット・ノジエールや『盗むひと』のジュリアにまったく共感できない者がいることも、企画者は十分に想定済みである。しかし、企画者としてそれぞれの映画の「正しい」見方を示すつもりもない。他者の映画の見方・需要を大きく変える講釈を垂れることはしたくないと思っている。それゆえ、このリーフレットは映画の解釈よりも背景知識を補うことを目的に作成されている。鑑賞者に思考を促すのは批評家や企画者ではなく、映画そのものである。上映作品たちを通じて、それぞれの鑑賞者が歯がゆい感情を抱き、様々なことを考えてくれるならば、企画者としてそれより嬉しく思うことはない。
「フランス映画と女たち」企画:竹内航汰