ようこそ、映画館へ――メイリス・ド・ケランガル『引き波の日』

 インタビューをさせてもらった縁から、親しみを込めてメイリスと呼ばせてもらっているメイリス・ド・ケランガルの新刊は、ついに一人称で書かれていた! 地の文で視点人物が次々と変化していく文体をもつメイリスの新刊を手にとって、「わたし」という語が最初に置かれていることに大いに驚かされる。これまでの小説は三人称で書かれていたからなおさらだ。

 だがもちろん、彼女にとって、それは「自伝への回帰」などという単純なことではない。相変わらず、本文中に台詞を示すカギ括弧は存在しないのだし、スマホ画面に映るショートメッセージも、新聞に載っている文章も、調書の記録文章もすべてが地の文に組み込まれている。いわば彼女の文章は、イタリックがほとんど消去されたフォークナーの文章のようなものなのだ。

 物語は映画の吹替女優をしている一人の中年女性のもとに一本の連絡が警察から届くことで始まる。ル・アーブルで発見された男性の身元不明な遺体の持っていた映画のチケットの裏面に、彼女の携帯電話番号が記されていたという。そうして事情聴取に呼び出された彼女は警官ザンブラとやり取りを重ねるうちに、自らも街を散策し、この身元不明の遺体が誰なのか特定し、事件を理解しようとし始める。

 まるで古典的なハリウッド映画のような追走劇のプロットをもった本作は、ドキュメンタリー映画に近い感触をもたらしてくるから面白い。メイリス自身の出身地であるル・アーブルの風景が、まるで長回しのカメラで――時にズームを使いながら――捉えられているような感覚を抱かされる小説なのだ。停泊している船舶、海岸にそびえ立つ岩壁の触感、波や通り雨の様子が細かく描写され、人物の行動よりも風景の記録が重要視されているようだ。

 このプロットと文体のそれぞれが依拠する映画ジャンルの差異こそが、メイリスの小説に緊張感をもたらしている。そうして、私たちは世界の細部と断片を見せられることになるのだが、《私は一つの仮説に賭けていた――断片をつかむことで、全体を再構成できるのではないかと。私はひとつの細部を、物理的で具体的な細部を期待していた》という小説内の一節は、まさに彼女の創作のマニュフェストのようだ。

 ただ、細部を詳細に描くことを目指す彼女の小説は、けっして反時代的なものではない。主人公が雨宿りをするカフェにたむろする高校生たちの言葉遣いはひどいものだし(現代映画にはほとんど出てこない)スマホも出てくるし、コロナについても描かれている。それどころか、主人公は『ナルト』の綱手の吹替を担当している設定なのだ。

 エルノー以後、同時代の記録としての文学は増えているが、それらはますますミニマルな文体を志向している。そんなフランス語圏文学において、単なる19世紀的な趣味ではなく同時代の細部の記述から俗語の転記までを含めた書物が存在していることが、とてもうれしい。

 これまでも彼女の小説において映画的なモチーフの重要性は疑いようもないものなのだが、今回もまた非常に魅力的な映画にまつわる細部が小説内に小エピソードとして組み込まれている。本人に聞いたところによれば、ヌーヴェルヴァーグとともにアメリカン・ニューシネマを偏愛してきたメイリスは、小説の中で露骨なほどに「60年代アメリカ映画的」とでも言えそうなシーンをよく描く。『コルニッシュ・ケネディ』のキスシーンは、その白眉と言えるだろう。

 そんな彼女の小説の中で、映画館は常に特権的な場所であり、後方の映写機から差し込む光、室内を舞う埃、独特の香りや椅子の柔らかさの細かな描写は映画(と映画館)を愛好する者にはたまらない。今回も〈ル・シャネル〉という架空の映画館が登場し、作中ではスパイ映画を特集しているこの名画座がとても魅力的に描かれてる。そして、ここは主人公の女性にとって非常に思い出深い場所のようだ。

四年間、わたしは毎朝〈ル・シャネル〉を通って中学校へ通っていた。視線は決まってその週の映画のポスターに向けられていた。グラフィック・アート、タイトル、俳優たちの名前――わたしはそれらを伝説の名としてしか読んだことがなく――が、通学中ずっと、わたしの中に浸透していき、しばしば、主演女優の肌の中に自分を滑り込ませ、彼女の顔を借りて、彼女と同一化していたが、それはいつもより自由で、大胆で、逸脱的な自分のもうひとつの姿のようだった。

[…]劇場にはあまり入らなかった。映画を観るとあまりにも激しく心をかき乱され、汗ばんで、夜になるといっそう濃く甦るイマージュに取り憑かれてしまうので、両親は私が観る回数を制限していたのだ。けれども実際のところ、私がある種の体験をするのに劇場に入る必要はなかった。肌とシャンパンのような色の光の輪で通路の壁を輝かせていたヴィンテージ風にレタリングされたバラ色のネオンサインは、ほとんど放射能のように、私を強く惹きつけるには十分だった。それが映画の光だった。

 〈ル・シャネル〉の前を通過した子供時代の彼女についてのこの一節は、『市民ケーン』のポスターをくすねてしまう少年アルフォンス(『アメリカの夜』)に匹敵する感受性(!)で、何度も読み返したくなる箇所の一つだ。

 思えば、ケランガルほど恋焦がれて誰かを待つ様子をうまく描く作家はいないのだった。『旅路の人生 La Vie voyageuse』の冒頭における不在の恋人を待つ女性の心理を描いた時以来、メイリスにとって「待つ女」は常に重要な物語の要素である。

 高校時代の主人公は、クラヴェンと呼ぶ男と遠距離恋愛になったのち、連絡が途絶え、待ちつづける彼女が便りのない理由をでっちあげて自分を納得させ、身分証を偽装してクラブで夜通し踊り、街で似ている後ろ姿の人がいれば追いかけてしまう。《初恋をしているというだけで、すべての権利が自分にある》と思い込み、実家の電話を占拠する彼女は微笑ましい。

 メイリスは、故郷で水先案内人をしていた父親と、長距離客船の船長を勤めていた祖父を待つ女性たちを見て育ったから、このようなモチーフが頻出するのかもしれない。だが、今回は初恋にまつわるエピソードであり、いつも以上にみずみずしい。

 実を言えば、本作を読みながら、主人公の女性と遺体をめぐるサスペンスにはまったくと言っていいほど惹かれなかった。そもそも、『インド夜想曲』や『野生の探偵たち』のように、謎は常にズレていくのだし、謎解きに物語の力点は置かれていない(実はこの2冊は彼女が愛読している作品だ)。

 だが、それはこの小説がつまらないということを意味するわけではまったくない。それに、いたずらに読者を錯乱させるポストモダン小説というわけでもない。本作はプロットなどどうでもよく、次々と現れる魅力的な細部を読むという小説を読むことの根源的な享楽を再発見させてくれる。豊富な語彙を目前にして、時に辞書を引きながら、仏日辞典では見当たらない語彙を周りのフランス人たちに聞きながら(そしてフランス人たちも彼女の小説に登場する語彙を知らないことが度々ある)、ゆっくりと文章と向き合うことは本当に幸せな時間なのだ。

 これほど魅力的な小説家がいまだ日本で紹介・翻訳されていないことを嘆きつつも、ひとまずは「nobodymag」で掲載予定のインタビューとともに、彼女の作品の日本への紹介が実現する日を心待ちにしたい。

Maylis de Kerangal, Jour de ressac, Éditions Verticales, 2024.