文体の静謐さ――メイリス・ド・ケランガル『夜が深まる頃に』
翻訳するのがむずかしそうな本にいつも惹かれてきた。それが短い本だと、ものすごく惹かれてしまう。さらに言えば、翻訳がむずかしいというのは、難しい単語がたくさん出てくるとか、日本語にはない文構造をしているとか、そういう具体的な困難さではない。出てくる言葉はやさしいのに、日本語に訳したら作品のイメージが失われてしまうかもしれないものに直面したときに抱く感覚、そうしたものに惹かれるのだ。
不運なことに日本ではまだ一冊も翻訳されていないメイリス・ド・ケランガルの小説は、まさにそんなむずかしさを抱えていると思う。交通事故で昏睡状態に陥ったひとりの男性の出来事を、まるで昏睡中の息づかいのような長い文体で書き上げた『あさがくるまえに Réparer les vivants』〔訳題は映画版より〕も、将来への期待と不安を抱えた若者たちの度胸比べを描いた『コーニッシュ・ケネディ Corniche Kennedy』も、カリフォルニアの架空の町、コカに架かる橋の建設の過程を描いた『ある橋の誕生 Naissance d'un pont』も、一冊も翻訳されていない。
たしかに、彼女の小説は息の長い文体をしていて、しかもそれが、時には登場人物や何か生物の息づかいのように、なまめかしい印象を与えてくるのだから、翻訳はむずかしそうに思える。とりわけ、『あさがくるまえに』は物語の内容も相まって、緊張感を強いるものだ。
そんな彼女の作品のなかに、『À ce stade de la nuit』というたった70ページ程度の小説があって、とても美しい描写に満ちているけれど、特に翻訳するのが難しい気がする。それゆえ、この小説のことをずっと考えてきた。この題名は直訳すれば「夜のこの段階で」とでもなるだろうか。一晩の内のある特定の時点・状態を表す言い方だ。けれども、この小説はそんな味気のない訳ではもったいない深みをもっていて、なんとかいい訳がないだろうかと考えてみることがある。そうしたことを考えるのは、大抵、夜に散歩をしている時なのだけれども、先日ついに字義通りではない意訳で、『夜が深まる頃に』なんていうのはどうだろうかと思ったところなのだ。
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夜遅くに帰宅した「わたし」は、ランプが卓上で灯るだけの薄暗い部屋で、ラジオのニュースを耳にする。ラジオは小さな音で、皆が寝静まったころだ。ラジオから「ランペドゥーザ」という名前が聞こえたことで「わたし」は様々なイメージを頭のなかに思い浮かべていくことになる。ランペドゥーザ、それはイタリア最南端の島の名前だ。今朝、この島の沖合でリビアからの難民ボートが転覆し、300人以上が行方不明になったことを彼女は知るのだ。
小説は「à ce stade de la nuit」というフレーズからはじまるいくつかの章で構成されていて、どの章も小文字のこのフレーズからはじまるために、章ごとの時間の経過は希薄な印象をもたらしている。どの章も同じひとつの夜の同じ瞬間の出来事であるかのような印象だ。いつしか主人公の頭のなかに、『山猫』(ルキノ・ヴィスコンティ監督)でサリーナ公爵を演じたバート・ランカスターの顔が浮かび上がる。この俳優と映画のことを思い出したのは、もちろん、『山猫』の原作者の名前がジュゼッペ・ランペドゥーザだからだ。
だが、そのうちに彼女の思い出すサリーナ公爵は、ネッド・メリルの姿に取り替わってゆく。ネッド・メリルもまた、バート・ランカスターが演じた登場人物だ(フランク・ペリー監督『泳ぐひと』)。サリーナ公爵とネッド・メリルは、ひとつの人間の表と裏、世を支配する侯爵と現実から逃避する人物として、ランペドゥーザという地名の響きによって、彼女の中でひとつのイメージとして結びつけられてゆく。そして、ソルボンヌ大学のすぐそばの映画館、Reflet Médicisで『山猫』のリマスター版を見た時のことを思い出す。映画館の独特の匂い、光、外の冷たさ、そしてスクリーンで見たサリーナ公爵の屋敷の細部をひとつずつ思い出す。
さらには、ブルース・チャトウィン『ソングライン』に描かれた列車での移動を読んだ時のこと、ストロンボリを訪れた時のこと、風景の思想家ジル・クレモンの言葉、難民ボート転覆のニュース速報など、さまざまな記憶が混ざりあい、ひとつの物語を打ち立てられてゆく。
ひとつひとつのイメージを思い出しながら、貴族の没落を描く『山猫』から個人的な旅行の体験まで錯綜しあう複数のイメージは、全てが「わたし」の地名への関心によって表出する。あらゆる土地の名前はいつしか消えて変ってゆくだろう。彼女の個人的な記憶と歴史的な事件を結びつけるランペドゥーザという地名はどうだろうか。そうしたはかない固有名詞によって立ちあがる一連のイメージは、抑制された文体で描写される。句点はなかなかあらわれず、どの文も比較的長い。しかし、読みづらさは感じない。メイリス・ド・ケランガルの文章は、目の前に現れる事物をひとつずつ、まるで紙面の上に文字として置いていくように、列挙して書かれてゆくからだ。キッチン、テーブルクロスの上に光輪をつくるランプ、テーブルの上で繰られる新聞紙、コーヒーカップ……すべてが具体的なものだ。
彼女の息の長い文章は、静謐な夜にラジオに耳を傾けるひとりの女性の思考の流れを見せてくれる。それは、ある種の歌のようで――古来の意味での歌――、しかし、誰かの声という気はあまりしない不思議なものだ。
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戦後フランス文学では、誰かがしゃべっているような文体が競って開発されてきた。ジャン・ケロール、デュラス、ベケット、そしてローラン・モヴィニエまで。ささやき声のような文学がたくさんある。けれども、メイリス・ド・ケランガルの文体は、彼ら彼女らの文体ともまた少し異なっている気がする。決してしゃべり声ような印象は受けないし、むしろ沈黙の中でしっかりと文字として存在している。静謐な夜に、ひとり落ち着いて紙面の前に目を向けると、物語がそっと立ちあがる。そんな瞬間に立ち会わせてくれるような彼女の小説が、とても好きだけれど、訳すのはやっぱり難しそうだ。
ところで、メイリス・ド・ケランガルの文章を気軽に訳す勇気がどうも出なかったから、いつもとちがって今回の文章では、彼女の文章を一度も引用できなかった。どうしても、下手くそな訳文では、この作品にはもったいない気がしてしまったのだ。
Maylis de Kerangal, À ce stade de la nuit, Éditions Verticales, 2015.