ショック療法――コラリー・ファルジャ『サブスタンス』

【注意】以下では、あえてあらすじを極度に省略して記述しています。日本公開が2025年5月のためです。

 予告と遭遇した時から見たいと少しも思えない――それどころか、可能なことなら回避したい――と思っていた作品の1つだったのだが、フランス国内数百の映画館を月額20ユーロ程度でいくらでも利用可能なサブスクに入ってしまっているために、ついつい見たくない映画までも見てしまうことになる。フランスにいるということは、「映画を見に行く」のではなくて、ただ「映画館に行く」という習慣がつくということなのだ。

 この習慣がもたらすのは、『時計じかけのオレンジ』の拘束椅子よろしく、いかなる映像も回避することなど不可能になるということにほかならない。グロテスクな映像に対する私的な回避の欲求など無効化されてしまう。

 デミ・ムーア演じる中年の女優エリザベスが、自らの再起を目指して再生医療に手を出して、スーと名乗る若い女性へ生まれ変わるのだが、若返っていられる7日間という期間を破ったために、大変な目に遭っていくという奇抜さは特にない物語だ。こうして要約してみると、なんだか思想の更新がなされていない大学教員が飛びついて授業で解説を試みそうなものでしかない。つまり、自己同一性をめぐる哲学。だが、それ以上にこの映画で気になるのは、近頃やっと日本でも人口に膾炙してきた「男性の眼差し」(ローラ・マルヴィ)なる概念をめぐる1つの思考なのだ。

 劇中、エリザベスから「更新」された新エリザベス、スーを演じるマーガレット・クアリーの身体は、極度に断片化されてスクリーンにあらわれる。エアロビクス番組のための撮影シーンでは、いやというほどに尻、そして陰部のクローズアップが多用され、よっぽど、このクローズアップのショットは幾度あらわれるのか数えようかとも思ったのだが、あまりの多さに数えることには辟易する。

 一般的に、「男性の眼差し」として、すなわち異性愛者の男性鑑賞者の性的快楽のためとしてつくられる映像は、身体のパーツを断片化することでエロティシズム化する。脚、胸、尻などを筆頭に、身体のパーツはその所有者からはもはや切り離され、男性の欲望を誘発するための装置でしかなくなってしまう。だが、『サブスタンス』の極度に断片化されたマーガレット・クアリーの身体は、はたしてエロスを備えていると言えるだろうか。

 本作品を見て女優の身体に欲望するのは難しいだろう。それは、デミ・ムーアの最終形態におぞましさを感じるからというよりも、マーガレット・クアリーの執拗な尻のクローズアップにこそ吐き気を感じるからだ。本作品を前にして欲望よりもおぞましさを感じるのは、主観的な映像が多用されているせいで、エリザベス=スーに共感あるいは自己同一化させることが容易であるからなのかもしれない。スローモーションの多用、パースがくるってしまったような部屋、エリザベスが最後の薬品を取りに走って行く時の地面ばかりが映るシークエンス。とはいえ、そもそも映像は主観なのかと言われてみれば、当然ながら回答は宙吊りになってしまうシーンも多い。どうやら、われわれは、映像の文法と欲望についての考察を一歩前に進めるべき段階にきたように思えてならない。

 無論、鑑賞中にはこうした偽理論を考える余裕などなかったのだし、デミ・ムーアが「あなたが必要なのよ。自分が嫌いだから」と漏らすシーンは、彼女自身の半生を知っている者にとっては泣かせるものであったのだが――。

作品詳細:The Substance (2024) - IMDb