われわれの恋愛から何が残ったか――アントニオ・ピエトランジェリ『訪問』

 シネマテーク・フランセーズでは修復作品特集がはじまり、そのラインナップのあまりの豪華さに悶絶する日々を送っている。フォード、ホークス、鈴木清順、デュヴィヴィエ、ミネリ、サークにブレッソンまで(!)、そんな豪華作品が、どれも1回限りの上映で30分おきに上映開始のプログラムを組まれてしまうものだから、いったいどれを見ようか毎日スケジュール表とにらめっこせざるを得ないのだ。

 11月27日夜の上映では、おそらく多くのひとが『ギルダ』(チャールズ・ヴィダー監督)を選んだはずだ。あるいは『東京流れ者』(鈴木清順監督)かもしれない。たしかに、リマスター版の鮮明な映像でリタ・ヘイワースを見たいと思いつつも、選んだのは比較的来場者の少ない『訪問 La visita』。昨年、『私は彼女をよく知っていた』を見て以来、この監督アントニオ・ピエトランジェリの作品への興味が尽きないからだ。

 少々変わり者(というかフシギちゃん?)のピナが新聞広告にて交際相手を募集すると、11通以上の手紙が届く。本当は36歳なのに35歳だと嘘をついてしまういじらしさも魅力的な彼女が選んだのは、アドルフォという中年のなんだかパッとしない男性。たしかに優しそうではあるし、手紙の文章も丁寧で、減点すべきところはなさそうだけれども……。ついにピナの家にて対面する日が来て、アドルフォは駅まで車で迎えに来てもらえば、助手席の扉の閉まらない車に乗せられる。出だしから悪い予感がすれば、それは的中。道ではピナが「幼なじみ」だと言う乱暴な酔っ払い男に絡まれるし、家に着けば、オウムやリクガメ、イヌなどなど動物だらけのヤバそうな家。ちょっと逃げたいと思うのだが、ピナも躍起になってグラッパを大量に入れたコーヒーを差し出して逃がすまいと行動する。

 だが、ふたりで話していくと次第に形勢は逆転。ブランコが好きだというアドルフォの話をよく聞いてみれば、黒人奴隷にいつもブランコを押させていたことが分かり、ピナは差別主義者の彼にドン引き。食事を一緒に取れば、むさぼり具合と食べ方の汚さにゲンナリ。そして、少しお金の話になれば、彼の給料マウントは止まらず辟易。最後は、街の十七歳の少女に鼻の下を伸ばす姿を隠さぬ様子に呆れ果て、ついにピナは「お前のダメなところ」を目の前で列挙して直接指摘することになるのだ。

 とはいえ、ピナが結婚相手を今更探したのは、自らの不倫に終止符を打つためだった。彼女は長らくトラック運転手のレナートと不貞を働きつづけてきた。アドルフォの所作を批判したあとに、自らの秘密も告白しようとするのだ。他方で、アドルフォも、クリーニング店の女と曖昧な関係をつづけていた。二人は互いに寂しさを埋めるため、今度こそ運命の人を、と意気込んで出会ったのだが、結果は誰もが予想する通り――。

 こうして物語の線を辿ってみると、今やあらゆる場所で話題の1つとされがちな、「マッチングアプリで出会った異性にゲンナリした体験談」のようだ。そうした点で、なぜかフランスでは若者たちには大ヒット、ロングラン中の『狂った愛 L'Amour ouf』(ジル・ルルーシュ監督)よりもよっぽど現代的に思えてくる。また連絡するねと言って別れた二人が、その後、手紙のやり取りを一通ずつはしたことがエンディングのオフ・ボイスで示されるのだが、再会し恋愛関係になったかどうかは分からない。「仕事が片付いたらまた来る」とアドルフォは言っていたが、たぶん戻ってこなかったと個人的には思う。当時の観客たちがこのエンディングをどう捉えたのかは分からないが、個人的にはこのふたりが再び結ばれたとはとてもじゃないが思えなかった。たとえ凡庸なフラッシュバックの多用によってストーリーが展開しようとも、恋愛の(不)可能性という主題を描いている点で、単なる再会純愛譚をいまだにやってるジル・ルルーシュの新作よりも、よっぽど面白く見た。

作品詳細:La visita (1963) - IMDb