形而上的な夜のあらわれ――ロベール・ブレッソン『白夜』

 ブローニュの森からソルボンヌ大学、国会図書館やシネマテークのある左岸まで、毎日自転車で移動していると、必然的にセーヌ川沿いを通ることになる。セーヌ川沿い左岸の自転車専用道路を走っていると、エッフェル塔、ルーヴル、オルセー、ノートルダムを順に通過することになり、パリのシンボルと言える建造物が多数目に入ることになるのだ。もちろん、フランス映画を愛する者として、パリの街並みは映像で幾度も目にしてきたのだから、はじめは感慨深く思ったりもした。フランス映画――とりわけ、ヌーヴェルヴァーグ――とは、パリの街並みを撮影することだったのだから(!)。

 そうしたパリ感覚を抱きながら、ブレッソン『白夜』の4Kリマスターに向かうべく、せっせと自転車を漕いで、いざスクリーンで対面して見ると、驚く結果が待ち受けていた。パリの街並みがほとんど映っていないのだ。

 パリの街並みが映っていないというのは言い過ぎだろう。たしかに、ポンヌフの標識は何度も映っていたのだし、パリらしいテラス席のあるカフェや服屋も映っていた。パッシー通りの標識も映っていたし、メトロの入り口も映っていた。しかし、この映画を見ていて改めて実感させられるのは、ポンヌフという橋の上で一組の男女が出会いを繰り返すことを示すべく、ポンヌフの青色の板に白色の文字の標識が幾度も映されるばかりで、橋全体の姿や橋を含む風景はあまり映されていないことだ。もちろんパリが舞台の映画なのだから、エッフェル塔やノートルダムを映したっていいじゃないか。きっとトリュフォーならそうしただろう。だが、この映画にはそれらは一度も登場しない。

 パリの街中で撮影されたことは確かなはずで、通常の鑑賞者はフランス映画であるということを念頭に置いているのだから、石畳や石造りの建物がパリという街に属することを疑いはしないと思う。しかし、この映画にはパリを示す記号としての建造物はまったく映らず、むしろ「ポンヌフ」や「パッシー通り」をアルファベットという記号によって示す標識ばかりが映される。

 上映前解説を担当したエミリー・コキーが日本語を借用しながら「ボケ」と呼ぶ技法によって、街並みは美しいオーブによって彩られていた。しかし、室内では様々な事物に焦点が合うのとは対照的に、屋外ではふたりに焦点が合うことで、背景は大抵ぼやけている。「ボケ」は屋外でばかり使用されるのだ。この特徴的な映像により、『白夜』はたしかにパリの街並みで出会った一組の男女の四日間の物語ではあるのだが、パリという象徴的な記号=風景は薄められている。

 本作品を通じてブレッソンが試みたのは、特定の時代の特定の土地での一組の人間の行動を記録しようとしたというよりも、より普遍的な次元での人間という存在、それどころか光の現象を写し撮ろうとしたのではないかという気がするのだ。橋の下を幾度か通過する船のガラスに反射する光はとても美しいし、セーヌ川に反射する夜景もやはりリマスター版で見ると息を呑んでしまう。

 無論、ブレッソン作品の中では比較的見やすいし、かなり通俗的な物語だ。それでも、彼が撮ろうとしたのは、形而上的な存在としての光と音でしかない気がしてしまう。この映画の中では、一組の男女さえも、カメラがとらえる光と音という抽象的な現象に思える。それゆえに、直線的な時間の流れから音を切り離すテープレコーダーが重要な役割を果たしているのだし、人々の声は単調なトーンで発せられ、もはや抽象的な存在として還元されている。

 念のため、帰り道にポンヌフを渡ってみれば、たしかにポンヌフからはノートルダムもエッフェル塔も確認できず、ルイ・ヴィトンの店舗とイヴ・サンローランの大きな広告が見えるばかり。フランス映画のひとつの象徴的な建造物となった橋が、それほど〔歴史的な〕フランスらしさを備えていないことに、はじめて気づき、驚かされたのだった。

 ところで4Kリマスター版の鮮明な映像で改めて確認すると、マルトの家にあった本は「エロ本」(『イレーヌ』や『ファニー・ヒル』)ばかりだ。そんな本を手にして「これなあに」なんて無知な質問をイザベル・ヴァンガルテンにさせるブレッソンは、本当にミソジニックなロリ好きなのだと再認識させられた。

 もちろん、セーヌ川沿いのブキニストが売っていたのはサドだったのだし、エリ・フォールの美術史やピカソの『しっぽをつかまれた欲望』が出てきたのも確認したから、色々な本が出てきたことは否定できない。とはいえ、『やさしい女』のドミニク・サンダが銃を手に取るシーンで銃の下に置いてあったのが、女性の自由と権利を訴えた哲学者マリース・ショワジーの小説『アマレラ Amarella』であったことを思い出すと、ブレッソンから女優への意地悪としか思えない。