「フランス映画と女たち」の字幕について

 Twitterを見ていたら、ウディ・アレンの最新作がボロクソに言われていた。どうやら全編フランス語でスクリプトを書かれたのだが、そのフランス語がめちゃくちゃだったらしい。そんなめちゃくちゃなフランス語を演者たちが意味の通じるものに直したせいで、台詞がどれも凡庸になってしまっただとか……。

 ウディ・アレンに同情するわけではないが、本当に外国語は難しい。今回、字幕翻訳をしてみて、あまりの難しさに頭を抱えてしまった。やっぱりプロの翻訳者たちは凄いのだ。

 字幕翻訳は1秒4文字だとか、1行24文字×2行だとか色々な制約がある。だから、台詞の全てを訳すことはできない時に、台詞の一部を省略して翻訳する。もちろん、ある台詞が後半の別の台詞と呼応していることだってある。そんな時は、訳語も統一しなくてはならない。2時間程度の映画なら、台詞は1000個以上に及ぶことになる。それだけの量を適切に訳すのは至難の業だ。

 まず、大変だったのは字幕にする部分の取捨選択だ。この点は、とりわけ『ヴィオレット・ノジエール』が難しかった。この映画は、国家・カルチェラタン・家庭という3つの空間での出来事の錯綜によって物語が出来ている。戦争へ向かうフランスという国家における政治談議の台詞、ヴィオレットがさまようカルチェラタン界隈での半グレたちとのやり取り、そして家庭という閉鎖空間でのやり取り。カルチェラタンのホテルで寝ている時に、ナチの勢力を示すラジオが流れていたり、家庭内での会話に当時の大統領の話題が出る。どれもが意味をもって、絡み合っているために、なにがなんでも全てを訳したかった。

 そういうわけで、『ヴィオレット』は通常の字幕のルールを破り、多少表示時間が短くなろうとも、全ての台詞を訳すという方針を取った。戦争・隣国のファシズムに国民たちが怯えていた頃に、小さな家庭での殺人事件が国民を熱狂させたことは重要だからだ。どうしてヴィオレット・ノジエールがこれほどまでに、文学の、歴史のミューズになったのか。それは戦争という大文字の歴史との関係がある。

 他方で、とにかく説明をしない字幕を心掛けた。これも『ヴィオレット』についての問題だ。自分はシャブロルのインタビューを数多く読み、聞いているために、この映画の意図や近親相姦の有無について監督はどう捉えているかを知っている。だが、シャブロルは、映画の中に(近親相姦の有無、エミールとヴィオレットの関係など)多くの曖昧さを残している。だから、インタビューで言っていたからと、勝手に説明をするような訳文はつくらないように心掛けた。

 また、前述と同じ字数超過のルール破りとして、『レースを編む女』におけるフランソワと友人たちの談議のシーンがある。マルクス主義、弁証法、箱の時代が云々……というシーンだが、インテリ大学生たちの難解な談議を全て訳すとルールに合致しない。しかし、ポムはこの談議についていけず疎外感を感じていることを示すのが重要だと思った。だから、その感覚を示すために、表示時間が短くなろうとも、ここは全ての台詞を訳すことにした。

 一人で数多くの字幕を訳していると、誤訳がどうしても避けられない。基本的なうっかりミスは、フランス語の分かる友人に見てもらうことで直せる。しかし、そうは言っても、数千の字幕を訳すとなると、必ず誤訳が発生する(今まで映画館で見ている時は、誤訳を見つけるたびに「ああ、ミスってるな」と思っていたが、自分でやってみるとそんなことはもう思えません……)。

 結局、プロに最終確認してもらったところ、「テイスト」なのだと言われた。もちろん単純な誤訳は問題だが、字幕翻訳は単なる誤訳か否かを問うのが難しい分野だとも思う。数多くの制約の中で、台詞のエッセンスを抽出して別の言語に変えてしまうこと。そこには訳者のテイストが必ず含まれる。だから、本当に作品を理解しようと思ったら、原語で聞き取って見るしかないし、名訳者とは彼の出すテイストと作品のもつテイストを常にぴったり合わせられる者のことなのだろう。